Japanese Canadian Monument

文・サンダース宮松敬子 

歴史的モニュメントの開会式

 ブリティッシュ・コロンビア(BC)州の州都ビクトリア市の日系カナダ人、日本人移住者たちは10月3日(土)から7日(水)までの5日間、長い間の念願だった Japanese Canadian Monument(日系カナダ人記念碑)が設置された記念公園(839Academy Close, Victoria)のオープニングのためとてつもなく忙しい日々を送った。その中心となったのは Japanese Canadian Legacies Society (Susanne Tabata, CEO)(注1)と呼ばれる団体であったが、その他にも数多くの日系団体やビクトリア大学の学術関係者、BC州政府関係者などが力を結集してこの記念すべき晴れの日を迎えたのである。

 初日の3日は招待客のみで開催されたが、燦燦と陽の注ぐ秋晴れの下、午後1時から4時までの3時間に渡った式典はつつがなく終了した。

 その模様は地元の各新聞、TV局はもちろんのこと、カナダ全国の町々でも大きなニュースとして採り上げられた。

写真:(左)地元の新聞記事;(右)当日配布された冊子(2200人の名前が印刷されている)

写真:開会式の様子

 加えてその様子はオンラインによって全国に同時配信され15000人以上が視聴し、15カ所で開催されたウォッチパーティーにも2,000人近くが参加したと言われる。

 翻って地元のビクトリアでは、綿密に組まれた90名からなるボランティアチームの対応によってすべてがつつがなく進行した。また開会式当日以後の10月4日から7日にかけての4日間には登録した2,000人近くの方々が来場し、時間割りでツアーが組まれ、その運営もサポートしたのである。

鎮魂の場のモニュメント

 なぜ今この大きな記念日を迎えたかは、カナダにおける150年ほど前からの日系人の歴史を知る必要がある。広く知られている定説によると、移民第一号は1877年に来カした長崎県出身の長野万蔵とされている。その後の歴史研究によって、これには多くの異論が唱えられているのだが、その年代あたりから日本からの移民が増えたことは確かである。

 その後の半世紀余りの間にバンクーバー島、ジョージア海峡を隔てた本土のバンクーバー周辺に多くの移民が渡カし、漁業、農業、林業または個人的なビジネス等々に携わり、200カ所近い大小さまざまなコミュニテイーを形成し地道に生活の基盤を築いていった。

 だが1942年に日本が米国ハワイ島のパール・パーバーを奇襲攻撃し太平洋戦争が勃発したことで、BC州に住む日系カナダ人の生活は一変したのである。

苦難の歴史

 発端は米国と日本の戦いにも関わらず、BC州政府は即米国に習い西海岸周辺に住む日本人移民をカナダ生まれの子供たちも含め有無を言わせず根こそぎ集め、冬は大雪の降るロッキー山脈の麓の幾つかの場所に、粗末なバラック小屋を建設し鉄条網で囲んで収容した。その数は3000人の子供を含め22000人に及んだ。

 中には家族から離され、道路工事、シュガービーツ畑の収穫などの過酷な重労働に従事させられたり、POWキャンプ(注2)に送られた男性たちもいたという。

米国の日系アメリカ人との違い

 1945年には日本が無条件降伏をして第二次世界大戦は終戦を迎えた。しかしBC州政府はその後の4年間は日系人が元の居住地に戻ることを禁止し、日本に行くかロッキー山脈の東方面に移動するかの二者択一の道を選ばせたのである。

 アメリカの日系人達も戦争中には強制収容されたのだが、終戦後は元の居住地に戻ることを許可された。だがBC州では日系人の家屋、漁船、畑、ビジネス関連の所有物、生活雑貨や個人の私物等々すべてを州が音頭を取り、二束三文で競売に掛け、売り払ってしまったのである。

リドレス運動

 その後帰る場所のない過酷な生活を強いられた日系人たちは、まさに一からの再出発を余儀なくさせられた。政府の「裏切り」を感じながらも、新たな移住先への心もとない「旅立ち」をし、日本人の持つ「我慢」と「絆」を大切にしながら「歩」み続けたのだが、それはまさに壊れた破片をつなぎ再構築する「金継ぎ」の作業にも等しいものであった。

 だがカナダ生まれの日系2、3世たちは、政府の過去の行為は不平等とレイシズムの象徴であったとし、静かにリドレス(補償)運動を展開した。そしてついに終戦から43年後の1988年に、政府は自国の間違った行動で艱難辛苦(かんなんしんく)を味わった日系人たちに対し一人当たり$21000の補償を行ったのである。

写真:石碑に刻まれた親戚や友人の名前の上に紙をあて鉛筆でこすりメモリーとして持ち帰る参列者たち

心配ごと

 寄せては返る波を想定する98枚の花崗岩に彫られた22000人の名前を追いながら、筆者が非常に憂慮することの一つは、記念碑への悪戯である。

写真:記念碑の全体風景

 当市を訪れる旅行者たちは整備された清潔な街との印象を持つのだが、一たび観光客の多いダウンタウンを離れると、建物の壁や住宅の塀などにスプレーペイントで意味不明な落書きがそこここに散見され景観を損ねている。

 当然ながら委員会の人々も「そのための対策は取っている」と言い、その際には拭き取る用意があるというものの、一般公開されている市民の公園であれば来る者を拒むことは出来ない。ただひたすら悪筆な悪戯の標的にならないことを祈るばかりである。

 長い苦難の道を歩んだ日系の先人たちに思を馳せ、機会を作りこの公園に是非とも足を運んで貰いたいと切に願っている。

注1:JCLSは、日系カナダ人コミュニティが定めた優先事項を実現するために2022年に設立され、BC州による補償措置(リドレス)の一環として資金提供を受けている。

注2:捕虜収容所(Prison of War =POW)とは、戦争状態にある交戦国が、敵側の戦闘員を捕虜として拘束するための施設のこと。