灯台下暗し
文・嘉納もも・ポドルスキー
「グループ・オブ・エイト」のメンバーに加えていただいてちょうど三年が経つ。
この間、私が投稿したエッセイの中に息子たちのことを取り上げたものが二つある。2014年2月の「ローマ字メッセージが来る時」と同年10月の「決してたどり着けない国」は、カナダ人の父親と日本人の母親の間に生まれ、カナダと日本で育った彼らのそれぞれに興味深いアイデンティティの変容が題材となっている。
長男をメインに扱った2月のエッセイでは、3才年下の次男とちがって「日本」(日本に住んだ経験があること、日本人の血を受け継いでいること、などすべてを含めて)との関係をなるべく遠くにやってしまおうとする傾向が見られると指摘している。小さい頃からホッケーに没頭し、念願かなってアメリカの大学チームでプレイする機会を得た彼が、日常生活の中で自分のエスニシティについてわざわざ考えることなどない、と断言していた時期に書いたものだ。
ところが人生とは奇妙なもので、そんな長男が現在、日本の大学院に通っている。今年の秋から少なくともむこう一年は日本で暮らすことになったのだから何が起こるか分からない。
過保護なオカンを自認する私は、もうすぐ25才になる大きな息子の引っ越しを手伝うためにスケジュールの合間を縫って9月の末に日本に一週間だけ滞在したのだが、久しぶりにじっくりと二人で話ができたのは本当に良かった。これまであまり聞いた覚えのなかった息子の胸の内を知り、「灯台下暗しとはこの事か」と呆れ果てるような思いをすることができたからだ。
2001年からしばらくの間、私の仕事の都合で一家で日本生活を送った時期がある。長男がカナダに戻って来たのは彼が14才の春だった。本場でホッケーがしたいから、と自ら選んで父親と一足先に帰国したのだが、近所の高校に編入した時のショックは予想以上に大きかったようだ。
神戸で通っていたインターナショナル・スクールは非常に質の高い教育を施してくれていた。そのせいで、息子は「まるで落第した様な感じ」と、カナダの公立校の授業に失望し、慌てて翌年は私立校に転校させることになった。その頃のことは私もよく憶えている。
だが今回、日本で聞いた息子の述懐によると、勉強のことよりも学校でもっと難儀したのは人間関係だったのだそうだ。
クラスメイトたちとどう接したら良いのか分からない、いつも自分だけが浮いているような気がする。
生まれた時からずっと付き合いのあった従兄弟たちとさえも、何かしら違和感を覚え、何年もそんな状態が続いた、と言うのである。
私が長年、研究して来た「サードカルチャーキッズ」(以下TCK*注)の、特にティーンエイジャーのTCKの間ではあまりにも典型的で、特有の心情。TCK関係者の間では「バイブル」とされるヴァン・リーケンたちの著書の中に幾つものケースが記され、私はそれを翻訳までしているのだ。
おまけに私自身、15才でフランスから日本の学校に編入し、長男と似たような戸惑いや疎外感を経験をしているというのに、彼の口から聞かされると改めて「寝耳に水」とばかりに驚くのは何故なのか。
「まあでも、今思えば高校時代の友達が一番の親友だから、どうとも言えないけど」と長男が笑って言ってくれたことがせめてもの救いだったが、どうしてあの頃の彼の孤独に気づいてやれなかったのか。
カナダに戻って来た当時は自分も環境の変化に翻弄されていて、その余裕がなかったからなのか?
あるいは、自分が乗り越えたことを息子にもできないはずがない、と楽観していたのか?
はたまた、彼は自分で選んでカナダに戻って来たのだからそんな弱音を吐くべきではない、と妙なスパルタ意識を持っていたのか?
いずれにしても親として、研究者として、自分の鈍感さを恥じ、「灯台下暗し」の怖さを肝に銘じたことである。
大人になった長男に今回の日本滞在がどのような影響をもたらすのか、しっかり見守ってまた皆様にご報告させていただきたい。

邦訳(2010年出版)
(*注:サードカルチャーキッズ=Third Culture Kids とは「幼少期に長期間、親の仕事の都合で外国に住んだ経験のある子どもたち」のことである。日本で「海外・帰国子女」として知られる子供たちもTCKの概念に含まれる。Ruth Van Rekenの著書については2015年6月のエッセイ「『サード・カルチャー・キッズ』の著者、ルース・ヴァン・リーケンとの出会い」(に詳しく記しているので参照されたい)