「日本のグローバル化への道はまだ遠い」

文・嘉納もも・ポドルスキー

「日本のグローバル化への道はまだ遠い」の根拠その1:

前回(2月)のエッセイでは平昌冬季オリンピックをテーマとし、2020年の東京オリンピックが同様にスムーズに運びますように、と祈願して締めくくった。だが先月、日本からカナダに帰る道中でその期待に水を差すような事態に遭遇した。

私は普段、大阪から東京までの国内便に全日空を利用するのだが、たまには日本航空で飛んでみようかと思ったのが事の発端である。

搭乗時間が来るのをゲート付近で待っていると、やがてお馴染みの「東京羽田行き、~~便の搭乗のご案内を申し上げます」というアナウンスが流れた。座席の位置の関係で搭乗の順番が後の方に回って来る私は、全ての呼び出し案内が終わるまで座って待っていた。そして気が付いたのだ。英語のアナウンスが一切なかった、ということに。

「国内線だからか?」

いやいや、それは言い訳にはならないだろう。

私のように大阪から東京まで飛んで、その後、カナダや海外へのフライトに乗り継ぐ人はいるし、その中に日本語の案内だけでは困る人がいてもおかしくない。それにかつて、全日空でこのようなことは一度も経験した覚えがない。だからこそ、違和感があったのだ。

私は搭乗ゲートを通過する際に、スタッフに問うてみた。

「日本航空では、搭乗アナウンスは日本語でしかしないんですか? 英語はありませんでしたよね?」

スタッフの二人は驚いたような、バツの悪そうな表情になり、明確な返事をしなかった。

次に、飛行機の入り口で出迎えてくれたチーフCAらしき女性にも同じ質問をしてみた。すると驚くような言葉が返ってきたのである。

「あ、国内線の場合は、見渡して、外国人のお客様がいらっしゃらないようでしたら(英語のアナウンスは)いたしません。」

目が点になる、という表現を使うのにまさにぴったりな状況である。あまりのことに一瞬、絶句したが、すぐに気を取り直して応戦した。

「で、外国人がいないって、見た目だけでどうやって分かるんですか? 日本人と同じようなアジア人の外見だからといって、日本語が分かるとは限らないんじゃないですか?」

これにはさすがに向こうも自分の軽率な発言に気付いたらしかった。

その証拠に、羽田に着陸して私が機内から出ようとすると、先だってのチーフCAが切羽詰まった形相で追いかけて来た。そして自分を含めて日本航空の対応の至らなかったことを謝り、私の指摘を上層部に必ず伝えると言った。

この出来事から一カ月余りが経った今、思い出しても憤慨してしまうが、とにかく卑しくも日本を代表する航空会社の、それもチーフCAがこのようなとんでもない意識の低さでは思いやられるではないか。このご時世、国内線であろうが何であろうが英語のアナウンスは必須であろう。しかも今回は大阪―東京という主要航路での有様である。地方都市間のフライトは推して知るべしだろう。

東京五輪までに徹底的な社員教育が求められるところだ。

 

根拠その2

今年の4月末にトロントで開催されたドキュメンタリー映画祭「HOTDOCS」で通訳を務めた。「TOKYO KURDS」というタイトルの作品を引っ提げて来たのは日向史有(ひゅうが・ふみあり)氏、まだ30代の若い監督さんである。

まずは日本で放送された時の紹介文(TV ASAHIテレメンタリー2018年のHPより)を転載する:

55回ギャラクシー賞選奨作品アンコール放送「東京クルド/TOKYO KURDS

東京周辺には、トルコ系クルド人のコミュニティが広がる。その数約1500人。トルコでの迫害や差別を逃れ、20年ほど前から住み始めた。しかし、日本で難民認定は認められず、不法滞在のまま暮らす者も多い。

6歳で来日したオザン(18歳)もその1人だ。働くことは法律で禁じられ、不法労働に頼りながら家族と暮らす。昨夏、オザンは抱いた夢を口にする。

将来を切り拓くチャンスすらない日本で居場所のなさに葛藤し、もがく彼のひと夏を描く。

ナレーター:伊沢磨紀   制作:テレビ朝日

本作品は20分の短編である。だが若いクルド人の青年の日常生活に密着し、彼の淡い希望と深い絶望を簡潔かつ巧みに描きあげているため、観る者は一気に引き込まれてしまう。映画祭では別の国の長編作品と同時に上映されたが、観客からの質問が日向監督に集中したのもうなずけた。

私は職業柄、移民や難民の問題に関心を持っているのだが、このドキュメンタリーが題材としている日本のクルド人コミュニティについては全くの無知であった。驚いたのは(日向監督も舞台挨拶でそこを強調していたが)日本ではクルド人の難民認定が過去に一人も下りていない、という点である。主人公のオザン青年やその仲間たちは、毎年、入国管理局のオフィスに出向いては「仮放免」という曖昧な処分を受け、日本に住み続けている。政府は、彼らを難民として正規に受け入れたならば、その例に倣って大勢の外国人が難民申請を目的に流入してくるに違いない、と恐れているのだろう。

だが強制送還をするでもなく、ただ合法的な就労や医療保険へのアクセスを阻むだけでは何の解決策にもならない。現に映画の中では日々、解体業の仕事に従事している多くのクルド人たちの姿が描かれている。車を運転している者も見られたので、監督に質問したところ、不法就労者でも自動車(そしてフォークリフトの重機など)の免許を取ることが可能だと知った。アパートを借りることも出来るし、子供たちは義務教育を受けられる。オザン一家は一見、合法的な移民と変わらない生活を送っている様子だった。

この二つのエピソードから見えてくるのは、私がかつて日本の女子大学で「エスニシティ論」を講義していた際に感じたことと共通する。要するに日本人は往々にして「文化・民族的背景が異なる人々がお互いを平等と認め合い、共存する社会」というものをイメージするのが苦手なのである。

1980年代にさんざん日本の「国際化」の必要性が提唱された時期があったが、その担い手として、それまで教育現場でお荷物扱いだった「帰国子女」に白羽の矢が立った。海外育ちの彼・彼女たちに外国人との折衝を任せておけば、国内育ちの日本人は今までどおり、何も変えなくとも安泰だからだ。

21世紀になり、今度は「国際」から「グローバル」にキーワードが入れ替わったが、一般人のレベルでも、行政のレベルでも、メンタリティはさほど進展していない。根本から社会構造や個人の意識を変えて行こうという勇気がなければ、「日本のグローバル化」などはいつまで経っても空虚なスローガンでしかないのである。

その意識改革において大きな役割を果たすべきなのは教育機関(特に大学等の高等教育機関)であるが、そこにも問題は潜んでいる。これについてはまた今後のエッセイで取り上げていきたい。

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