恒常的な力関係の不均等が生み出す理不尽 その②
文・嘉納もも・ポドルスキー
1980年代に大学でスキー部に所属していた頃、私は年末年始の3週間余りを某スキー学校で指導員をしながら過ごしていた。スキー用具を揃え、雪山での合宿に参加するには費用が多大に掛かる。スキー学校の指導員は宿泊も食事も支給され、給料をもらいながら毎日滑ることができるので、学生アスリートにとって非常に魅力的なバイトである。当然、競争率も高い。

大学3年生の冬に、同じチームの女子部員のBさんと二人で初めてそのスキー学校に雇われた時は光栄に思った。年末年始の繁忙期にインストラクターを務めているのは8割が学生で、いつもは試合の場でしか会わない人たちとの共同生活もとても楽しかった。
事件は翌シーズン、私たちが大学4年生の時に起こった。大晦日と元旦を神戸で過ごすためにスキー学校を離れ、再び年明けに戻ると、居残っていたBさんの様子がおかしかった。スキー学校の正職員で、私たちの直属の上司であったCから不適切なアプローチを受けたことがやがて判明した。
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古参のスタッフであったCは現役のプロスキーヤーとしての顔も持ち、学校内では幅を利かせていた。学生アルバイトの採用にも意見を言える存在であり、私たちのクラブから翌年以降も後輩たちが雇ってもらえるためにもCに絶対服従するのが(日本独特の体育会気質も相まって)当たり前だと思っていた。
現在の私であれば、Cがどれだけの権力者であってもすぐにその場をBさんと離れて身の安全を確保したに違いない。そしてCの所業を学校のトップに通報し、他の学生たちにも暴いて早急に処罰を求めただろう。
だが私たちはそのまま、留まってしまった。時は1980年代半ば、#MeToo運動はおろか、「性虐待」や「ハラスメント」などといった言葉さえも存在していなかった。どんな行動をとれば良いのか、20歳を少し過ぎた私達には分からなかったのだ。
数日後、私はBさんが再びCに脅かされる場面を目撃し、ようやく宿舎から脱出する決心をした。氷点下の真夜中、私たちは二人でスキー学校の向かいにある長距離バスの駐車場の管理人さんに匿ってもらい、その人にスキー学校の校長への手紙を託して始発のバスで地元に帰った。
その後の顛末は?
手紙を受け取った校長がBさんの元に謝罪に訪れたが、彼女は親に会わせることをしなかったそうだ(最終的に親に打ち明けたのかどうかは知らない)。そしてCは事件後も学校を辞めさせられることなく、ただ女子学生が雇われなくなった、ということしか私たちは聞いていない。
果たして私たちの取った行動が正しかったのか、十分であったのか、は今だからこそ出てくる疑問であって、その当時は警察に通報することなど考えも及ばなかった。
ひとつには現行犯を阻止した私が証人になっても、Bさんの受けた被害がまともに信じてもらえるかどうかが定かではなかった、ということがある。
そう、Cは女性だったのだ。

私たちがスキー学校を「勝手に」脱出した、とスキー部のOBに叱責を受けた時、私が事の次第を説明すると呆然とされた。あまりにも思いがけない事態に、何かの作り話をしているのだと疑われたのだろう。
何はともあれ、Bさんがただただ自分に降りかかった不幸を忘れたい、と思ったのは事実である。私たちは何事もなかったかのように合宿や大会に参加してそのシーズンを終え、そして卒業した。
それから10年、20年、30年近くの月日が流れても私はこの事件を鮮明に思い出すことができる。Bさんとは未だに交流があるが、彼女ももちろん、何一つ忘れていない。
ではCのしたことが私たちの人生を狂わせるほどの影響力があったのか、と問われればそうとも言えない。Bさんも私も結婚して家庭を持ち、それぞれの人生を歩んでいる。事件は私たちの親しい友人の間では共有され、笑いのネタにさえなっているのだ。
ただ、私たちが泣き寝入りをしてしまったことでCはそのままずっと罰せられずに呑気に生きて来られた。それを思うとモヤモヤとした感情が沸き上がって来るのを押さえられない。
他に被害者が出なかったことをせめて願っているが、このような感情を抱かされることさえも本来あるべきではない。
つくづく理不尽だと思いながら、せめてこうやって記事にしているわけである。
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