言語コミュニケーションの醍醐味と落とし穴

文・嘉納もも・ポドルスキー

このウェブサイトに寄せた前回の記事でも少し触れたが、私が翻訳に携わった『新版 サードカルチャーキッズ:国際移動する子どもたち』が2023年6月26日に発刊された。二年以上にも及ぶ翻訳作業がようやく実り、共訳者の日部八重子さん、峰松愛子さんたちとかなり興奮しているところである。

出版元の3Aネットワーク社で見本を手にする共訳者の峰松愛子さんと日部八重子さん。
私はリモートでの参加。
ジュンク堂三宮店の書棚に並ぶ『サードカルチャーキッズ』

今まで何度か「サードカルチャーキッズ」のテーマで記事を書いているので、

本の内容に関してはそちらを読んでいただくとして、この記事では言語コミュニケーションについて私の考えを展開してみたいと思う。

私は現在フリーランスで通訳や翻訳の仕事を請け負っているが、徐々に前者よりも後者の方が楽しいと感じるようになっている。かつてはその反対で、通訳をする方がエキサイティング、翻訳は面倒くさいものだと思っていたのだから面白い。

『サードカルチャーキッズ』を翻訳するにあたり、どうすれば原文の意味を損なうことなく読みやすい日本語に直せるのか、に日部さんと峰松さんと共に細心の注意を払った。三人がそれぞれ意見を出し合い、訳した箇所を声に出して読むなどして、納得のいくまで議論を重ねた。気の遠くなるような作業ではあったが、質の高い翻訳書に仕上がったと確信している。

またここ数年はスポーツ関係の雑誌社に依頼されて、英語でおこなったインタビューを日本語に訳す仕事もしている。この場合は取材相手の発言の意味を捉えるだけでなく、その人の口調や言い回しがなるべく読者に伝わるよう工夫しなければならない。日本語には話し手によって幾通りもの文体があり得るので、ぴったりのものを見つけるために頭を捻るのはこの仕事の醍醐味である。

通訳の場合は当然のことながら翻訳ほどの時間的余裕がないため、後から自分の仕事にふつふつと不満が湧いてくることが多い。「もっと良い表現が出来たのではないか」、「こう言った方がより正しく伝わったのではないか」と未練がましく考えてしまうのである。

記憶力、瞬発力、集中力が優れた通訳者には不可欠な能力であるが、これらが年齢とともに劣化していると感じていることも事実だ。記者会見や映画祭などで上手く役割を果たせた時の達成感と高揚感は大きい。そのため成功した直後は「もう少し続けられるかも知れない」と思ってしまうのだが、そう遠くない将来にライブイベントの仕事は断ることになるだろう。

ただ、私は人と人との間の言語コミュニケーションに力を貸すのが本質的に好きなので、何らかの形でそういった分野に今後も携わっていきたいと考えている。

ところで話は少し逸れるが、私は特に仕事でメールのやり取りをする時に自分の言いたいことが相手に伝わったのか、何度も表現を変えては確かめようとする傾向がある。少しでも誤解を避けたい、という強迫観念に近いものを常に覚えているのだ。

二つ以上の言語が絡んだコミュニケーションとなるとその不安はさらに募り、確認のしつこさも増す。だがこの入念さが時には仇となることを痛感させてくれた事件があった。

4年前に夫とイタリア旅行をした時のことだ。ある朝起きると目に違和感があり、ホテルの近くの薬局まで薬を求めに行った。事前にネットの英伊辞典で「ものもらいができました。抗生剤入りの目薬をください」という文章を訳し、スマホで薬局のスタッフに見せたのである。

画面に映し出されたイタリア語を読んで薬剤師は一瞬、不可解な顔をした。だが何のとこはない、彼女は英語もちゃんと喋れたのである。私が実際に腫れた目を見せたことも手伝って無事に薬を手に入れることができた。

だが店を出た後、ふと疑問が浮かんでイタリア語の文章を日本語に変換すると、「ものもらいができました」となるはずの部分が「私は豚小屋を持っています」と表示されて腰を抜かした。

どうやら私が英語で「ものもらい」を「stye」と入力したところ、なぜかグーグル翻訳機が気を利かせて「豚小屋」を意味する「pigsty」に置き換え、イタリア語で「porcile」と翻訳したのだ。(ちなみに「ものもらい」は「sty」というスペルでも良いらしく、そこから混同が発生したと考えられる)

どうりで気の毒な薬剤師が困惑したわけだ。

私は何とかしてこの誤解を解くための手立てを必死で考えたのだが、可笑しいやら恥ずかしいやらで頭に血が上り、すっかり冷静さを欠いていたのだと思う。単に「さきほどはすみません。グーグル翻訳機の妙なイタリア語訳を見せて混乱させてしまって」とでも謝ればよいものを、自分が「porcile」の意味を理解したことを分かってもらおうとしたのだ。

画像検索で豚小屋の写真(↓)を探し出し、再び薬局へと走った。

薬剤師の女性は笑顔で迎えてくれたものの、私の差し出すスマホの画面を見るや「Cos’è questo? Un animale morto? (何これ?死んだ動物?」と叫んだ。(この程度のイタリア語は私にも理解できる)

こうなるともうパニックである。誤解を解くどころかどんどんぬかるみに嵌っていくのが分かり、私はとにかく謝り倒して退散した。そしてこれを機に「あまり執拗に意思の疎通を図ろうとするのは逆効果かもしれない」という教訓を得たのであった。

もちろん、あのイタリアの海辺の町の薬剤師さんにおいては、「スマホをかざして店に入って来るアジア人女性」がトラウマとなっていないことを切に祈っている。