「死という選択」をどう考えるか

文・斎藤文栄 

人は誰しも死から逃れられない。

数年前の新聞の人生相談に、いつか自分が死ぬことを考えると怖くていてもたってもいられないという投稿があった。(毎日新聞2017年10月24日「人生相談」欄)私も同じことを思っていたので、どんな回答が書いてあるかと期待したが、回答者である劇作家で女優の渡辺えりさんは、いつもは際立った答えが多いものの、この回はあまり響くものがなかった。結局、死はいくつになっても恐いということを再確認しただけに終わり、がっかりしたのを覚えている。

しかし、いかに死ぬかを選べるとすれば、死の怖さも柔らぐだろうか。本サイトで安楽死の記事を読んで以来、そんなことを考えている。

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カナダでは、MAID(Medical Assistance in Dying)の導入により、安楽死が合法化された。本サイトでも、2019年にケートリン・グリフィスさんが制度を使って亡くなられた友人の母親のケースを取り上げたが、今年(2023年)に入って、三船純子さんが安楽死の制度が社会的弱者にもたらす危険性を、先月には野口洋美さんが、パートナーの母親が安楽死を選択したことを書いている。

安楽死といえばオランダが先進国だが、そのオランダでも、30年の議論を経て、安楽死を容認する法律が通ったという。[i] 現在、世界で積極的安楽死を認める国はカナダを含め10数ヵ国に上っているそうだ。日本もこのような選択を認める社会になるのだろうか。夫婦別姓「選択」制さえ認めない日本社会が、死に対する「選択」を認めるだろうか。オランダ同様に30年かけた議論が必要となるのだろうか。

実は日本でも、死亡判定については臓器移植法案の審議の際に「脳死は死か」という議論があり、臓器移植の場合にのみ脳死が人の死と認められることになった。ということは、意思により、既に心停止ではなく脳死を選ぶという選択をしている人がいることになる。むろん、安楽死とは文脈が異なるけれども、死に関する「選択」は、私たち日本人にとっても、とっくに他人事ではなくなっているのである。

安楽死に関していえば、オランダのニュースを聞いたときは、まだ安楽死は遠い世界の出来事だったが、時々顔を合わせているG8の仲間の記事を読み、ついに、安楽死が身近な問題として私たちの周りにもきたか、と身が引き締まる思いがした。

ところで、私には認知症の母がいる。もう自分の子ども達のこともわからなくなって、今は施設に入っている。母が施設に入る前、ちょうど父が亡くなったのを契機に、父の持ち物とともに家にある母の私物を少し整理し始めた。すると母の洋服ダンスの引き出しから、母のメモ帳が見つかった。そこには、母が認知症を発症し始めた頃、自分でも物忘れがひどくなってきた自覚があったのだろう、そんな中の母の感情が吐露されたメモが書き殴られていた。

「自分はバカだ」「迷惑をかけないうちに死にたい」

そのメモを見つけた時、妹はもうこんなメモを残したくないと言い、引きちぎって捨てようとした。しかし私はそれも母の一部として、妹が破ったメモをゴミ袋から拾い上げ、保存しておくことにした。今もこのメモは見るのも辛いが捨てられずにいる。

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翻って、安楽死である。カナダで安楽死の制度ができ、それを身近で感じた仲間の記事を読み、私には2つの疑問が拭えずにいる。

1、あのメモを書いた当時にもしもその選択肢があったなら、母はMAIDを使って死を選んだだろうか。

2、私は将来、認知症になった時、MAIDを使って死を選ぶだろうか。(注)

コロナ禍で急速に、広がった新たな日常(ニューノーマル)。今までの日常ではなかった生き方、働き方が受け入れられていく時代である。よりよく生きるという選択の先に、よりよく死んでいくという選択が、ニューノーマルとなる日は、実はそんなに遠くないのかもしれない。

いまは上記疑問にまったく回答が見出せないでいる。簡単に見つかるとも思えないが、死ぬ瞬間まで考えていくしかない。


[i] 星野一正「オランダで、安楽死の容認はなぜ可能なのか」時の法令1650号, 78-85,2001年9月30日発行https://cellbank.nibiohn.go.jp/legacy/information/ethics/refhoshino/hoshino0069.htm

(注)MAIDに掲げる諸条件をクリアしなければいけないことに注意が必要。

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