『逝く日を決めて、悲しくとも穏やかな別れ』
文・三船純子
義母が97歳で亡くなった。このG8でも何度か記事(ケイトリン・グリフィス、野口洋美、斎藤文栄、三船純子)になっているMAID (Medical Assistance In Dying)、安楽死による最期だった。実は義姉の夫も6か月前に安楽死を選択し永眠したので、短い間に安楽死という選択を二度も真近で経験することになった。
義母は90歳を超えて高齢者住居施設に入居しても、自分で車を運転する気丈でプライドの高い人だった。義母の車に修理の必要が出たのをきっかけに、夫を含む4人の子供達が義母の車の運転を半ば強制的に辞めさせた。この1年内に入居先の自分の部屋での転倒が何度か続き、その後入退院を数ヶ月繰り返す内に、義母の体は急激に衰弱していった。自分の体の自由が利かなくなり、自力での排泄も困難になった時に、義母は安楽死という選択を周りに相談し始めた。
入院先の病院を通して二名の医師が、数週間後に義母の選択を認める診断を下した。義母の安楽死が決まってから、親族が義母の病室にお別れを言いに入れ替わり立ち代わり訪問した。夫も足しげく病室を訪れ、その日の前日には長いこと義母ととても良い話が最後に出来たと教えてくれた。
執行日当日には義母の病室に12名ほどの親族が集まった。義母は一番のお気に入りのブラウスを着て、ワイン好きだった彼女を囲んで、皆で和やかにワインを飲んだ。病院のMAIDのコーディネーターである担当医師が何度か義母の様子を診に病室を訪れ、執行時間直前には義母の気持ちに変わりがないか最終的な確認がされた。「ええ、もちろん気持ちに変わりはないわ。私の灰が空からばらまかれるのが楽しみよ。ジョン(義母の亡き夫)の近くに行くのですもの。」と、そのようなアレンジはされていないのに、義母そんな冗談を言って、悲しみに包まれて泣いている私達を笑わせてくれた。その後、安楽死の執行時にはほとんどの人が病室を出たが、夫と義兄がそれぞれ義母の手を握り、夫に一緒に居て欲しいと頼まれた私は夫の手を握りながら、義母の最期を看取ることになった。担当医師により二種類の大きな注射器が義母に注入され、本当に穏やかに義母は息を引き取った。亡き夫の写真を胸に置きながら。
ほんの半年前に夫の親族は、義母の娘である私の義姉の夫も見送っている。脳疾患が原因で半身不随となり自分で食事や排泄も出来なくなった彼も安楽死を選択したのだった。安楽死履行日の前日に、お別れを言いに夫と彼の病室を訪ねた。義姉や周りの訪問者達が感情的に涙にくれる中で、当人はとてもおだやかな表情をして、「妻をよろしく頼むよ。」と言いながら、しっかりと握手をしてくれたのが印象に残っている。義姉は後に、言い難いほど辛い経験だったが、それでも亡き夫の意志を尊重し彼の安楽死の選択をサポートしたことに悔いはないと話してくれた。
義母が入居していた施設の義母の担当だったケアスタッフ達は、母が亡くなった時間に合わせて一本のビールを5人で分けて飲んで、義母とのお別れをしたそうだ。その気性の激しさから周りとのトラブルも少なからずあった義母は、それでも周りの人に愛されながら永遠の眠りについた。
義母と義姉の夫の二つの安楽死を通して、尊厳を保ち生きていくことが不可能になった際に、自分の逝く日を選択できる権利があることに対しての理解が深まったように感じている。
